あれこれとりとめなく。
そっか、フランク・ゲーリー逝去。安らかに。記事内にリビングモダニティ展で見た自邸の写真。何度見てもイヤだ。ちゃんと設計した建物は一度は行ってみたいところ。うねうねグネグネしている空間に身を置いてみたい。日本にはない。一番近いところはソウルかぁ。
追悼、フランク・O・ゲーリー(享年96)
— 倉方俊輔 (@KurakataA) 2025年12月6日
世界的建築家による初の国外作品は、実は日本・神戸にある
1987年、ともに叩き上げで、まだ大規模な公共施設などは無かった頃の安藤忠雄とゲーリーの友情が実現させた「フィッシュ・ダンス」 pic.twitter.com/5pI8eBMGDW
先日からボンやり考え続けている、藤浪-鬼越問題。私にしても例の阪神ファンにしても関西人だ。あの場面に対し「これはちょっとなぁ」と感じるのは関西人であるが故か。
普通、デザインシステムは、多くがトップダウンで統制的だ。中心にブランドオーナーが存在し、その意図の通りに周囲がデザインを実装していくピラミッド構造である。
大阪・関西万博では、その構造を一部受け継ぎつつも、「プロトコルとしてのデザインシステム」に重心を移す。「ここだけ守れば、あとは自由でよい」という最小限の約束事を決め、あとは個々の表現者に余白を残す。そこから多様な表現が勝手に生まれ続ける状態を目指した。
この発想の背景には、東京オリンピック・パラリンピックで起きた一連の「キャンセル」の経験がある。エンブレムや新国立競技場案の撤回、音楽・演出担当者の相次ぐ辞任・降板などを通じて、クリエイターたちは激しい批判の対象となった。
大阪・関西万博を成功に導いた「参加する余地をあえて残したデザインシステム」について、大阪ならではの面白がる風土があってこそ上手く回っていったという話が以前のトークセッションでもなされていた。これは、提供する側と触発されて面白がる側がフラットな関係、同じ地平に立っていたからできたことなのだ。トップダウンで統制的、東京五輪でのキャンセルカルチャー。絶対的な強者がいて、その強者の認めるものから外れたものはキャンセルされる、つまりボスが何を笑うか決める構図。あいつはxxxのくせにoooしようとして無様だ、と笑うわけだ。なぜ君はそれを笑うと決められるほどいつの間にそんなに偉くなったのかな?と関西人は不快に思ってしまうのかもしれないな。
前にチャレンジし暗雲が立ちこめている「資料見ないで藤浪選手描く」だが、後戻りできなくなる前にナンとかしてみよう。えーっとそのまま藤浪ラインでは如何ともし難い、他の人にしよう。…この感じ、誰かに似てるぞ。んーー、いや、ホンマかいな、ははは、これってウチの長男ではありませんか。分け目を反対にして、太めの眉毛にして、でかい涙袋っと。

この人赤ちゃんの頃からあんまり顔が変わってないのでありますよ。藤浪選手を描くつもりでスタートしたからこの手の大きさだけれど、長男の手はちっちゃいからそこは違うな。ははは、笑ってまうなー。