anemone

ぼんやりしたり、うっかりしたり。

グリコ日記

藤浪選手が日本でプレーすることのありがたいところは、参考にさせてもらえそうな画像がどんどん流れてくることだ。メガネに手を添えるところをとらえた画像があったのでそれを参考に、私の推しメガネTINIF | Glasses | MOSCOTをかけていただいた。しかしなんなんでしょ、このつるを支える指、女子力高い。私は小学2年からメガネをかけているが、こんなふうにしたことないな。(追記 : 藤浪選手がフィールドで練習時にかけておられるのは視野矯正用のメガネとのこと)

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一軍初登板予定日は17日の中日戦。実戦からしばらく間があいているのがちょと不安、でも!このチャンスを掴んでくださいませ! ♪ 花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる途〜♪

 

終戦記念日。80年前にアメリカとの戦争に負けた日。手元に一冊の日記がある。父が学校への提出物として書いたものだ。「グリコ日記」昭和15年グリコ株式会社発行 定価30銭。

縦17,7cm 横12cmの小さい本です

日の丸をつけた戦闘機と富士山、そして紀元二千六百年版とある。西暦で言うと1940年。盧溝橋事件が1937年なので、もうすでに内容は軍事色で充ち満ちている。ちなみに母の父親はこの時点でもうすでに中国で戦死している。

お國の為にも世界の為にもなる よい日本人になりましょう

父はこの時、元旦に14歳になったと書いているので、満でいうと12歳か。戦時下、中学受験を前に(飛び級で一年若い)落ち着かない毎日を細々とした字で書いている。1日分のサイズが7×5cm、毎日俳句をひねって書いているのは、多分二行がそれで埋まるからではないかと思っている。紀元節の日には枠外に注釈と、中央に紀元節の説明文が載っている。学校に提出用だからとも考えられるが、その日は父も天皇が大和橿原の地において〜とそれっぽいことを書いている。軍艦の内部に入れなかったのが残念だったとかは、まぁ男の子ですから。そういう時代だったのかと思うのが、日記において自分の父親や母親に敬語を使うこと。お父さんが帰ってこられた、お母さんがお腹が痛いと寝ておられた、など。少年時代をバリバリの軍国主義の中で生活していた父。

国民一人1日一銭貯金したら1年で買える兵器

興亜奉公日?なんだろう。

国民が労働奉仕や地域活動、軍事支援など、国のために無償で奉仕する日とされ、学校や地域社会で様々な行事が行われました。特に、戦時体制が強まる中で、国民の団結や戦意高揚を目的としたプロパガンダの一環としても重視されました。1940年に制定された「興亜奉公日」は、毎月1日を「奉公日」とし、国民に勤労奉仕や節約、戦時協力などを奨励する日として位置づけられました。

なるほど、朝も晩も献立は芋粥で、この年から始まった興亜奉公日にぴったりだと笑ったわけか。毎月1日がそうでも先月は元旦だったから、実質この日が初の奉公日だったのね。日記は小学校の卒業式の日まで続き、そののち受験に受かったことを報告して終わる。

私が俳句を始めたのは、昭和21年高校3年の春でした。きっかけは盛り場の映画館から流れ出した「愛染かつら」の主題歌です。田中絹代の絵看板を仰いで、何故か急に、戦争は終わったのだという思いが胸を衝きあげ、涙が溢れ出ました。その時本屋でふっと手にしたのが句誌でした。「旅の夜風」のメロディーで忽然と呪縛を解かれた想念が、新しい世界を求めて先ず俳句に入り込んだわけです。

 

youtu.be

後に父の俳句が文芸雑誌に載った時の自己紹介として書いた一文。映画館の前で歌を聞いて涙を流す青年。同じ頃、手塚治虫は阪急百貨店の光り輝くシャンデリアを見て、やったー!戦争は終わったんだ!と小躍りしたという。段々と戦争が身近だった人間が死んでいくし、戦争のやり方も変わっている。だが、戦争は人が死んでいくことには変わりがない。私はグリコ日記を手に取るたびに戦争を身近に感じる。そのようなものが、いろんな家庭にこれからもあることを願う。